このブログのタイトルは「紙漉つらつら」だったと想い出す。
つらつらの割りには、仕事のことばかりで、全然つらつらじゃないなあ、ここ数年。
ちょっと今日はつらっらってみるか。。。
この頃なんとなく、頭の隅っこに引っかかってること。
どこかで、一人で仕事出来る時間やスペースをそろそろ構築していかないと、全然違うレールに載ってしまう
ということ。
こう見えて、大勢と仕事できる性格じゃない。
自分の世界観とは異なると言っても良いくらい、違う世界にここ数年。
私とその異なる世界を繋げてるのは唯一「楮」
けっして紙じゃない。
同じ雑草を見ても価値観が真逆な世界の中で走り続けてきたことは、実に大きな学びだった。
あ・うんで通用する仲間達とは別世界で(笑)能書きなんか垂れても聞いてもらえない。
あるのは、誠心誠意と結果出し。
ふとこの頃思う。
そろそろ、これはこれで、次へバトンタッチして、自分の世界観掘り下げても良い頃合いかもねと。
大所帯になる、なってしまう私の性格。
だが、そうなればなるほど、一人で仕事することへの渇望が沸いて来る。
基本は人にも時間にも縛られるのが大嫌いだからこそ、大勢の異なる価値観を持つ人とやる時期を与えられるんだな、20代も30代も40代も50代も。
人が好きだからこそ、距離が縮まってしまい、結果突き放すことになるのも同じ。
人との距離の保ち方について、本をめくるも。。性格的に無理だと感じる。
自分じゃない「人」には、なれ無いんである。。
ここんとこ、80代、90代の生の声の文章や映画に偶然行き会う。
うむむ。。
まとまりが無くなって来た。。。
つまり、自分が向いてる方向が確実に「死」へ踏み込んでる世代の方が近くなったと言えるのだ。
「やり残した事」なんかをなんやかや言えるのは、やってないからだし、周囲の期待も凄いと本人以上に尾ひれがつくし、おひれをつける人は自分がやれてないんじゃないかなあって感じる。
30代にこの辺鄙で美しく、物作りにとっては、誘惑も少なくお宝ゴロゴロで、物作りにとって大事な「食べ物」が本物で頑張れば自給もありな場所に流れ着いたということは、もうそれだけで苦しかった都会暮らしから解放されて、殆ど余生である。
自分の中に、あとやってみたいことが、殆ど無い事に薄々気がついてる。
ここ数年継続してる事が、ほぼやりたいことに集約出来てるから。
あとは、規模を小さくして一日の中で循環出来る様になるのが「老人力」だと思うのだが。
一時はどうなるのやら!という事もあった。
それでも、やりたいことを続けられたし、続けさせて頂けた。
自分から開いちゃって収拾がつかないくらい開いちゃってという経験と。
閉じちゃって、一切を拒んでもこじ開けられて生かされてるという感覚を頂いた。
その、どれもに「楮」がぴったりと張り付いてる訳で。。。
確か小学校入学の秋のことだったと思う。
家の近くの空き地にセイタカアワダチソウや蓬が大きくなって自分の背丈より高く枯れ始めた頃。
なにげに、茎を折ると中から真っ白な綿みたいなのが現れて、それをこそげ落として「綺麗だな」と思ったのが私の「物心」だった。
つまり楮から紙になる白皮を取り出すという行為は、この6歳のときに誰からも教わらず、後の自分の人生なんかもわからずだったのに「美しい」と感じた事を鮮明に覚えてることが、今の暮らしでも時々フィードバックするんである。
そうやって考えると瞬きなくらい時間は短い。
この頃は大変だった事、悩んだことなんかほぼ忘却の彼方だ。
似た様な展開がそれでも懲りずに来るみたいだけど、ここまで来たらもう大丈夫かな。
自分の原風景に再びと思うのである。
2018年03月25日
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