特に小さい子が居る2人にとっては子供の休みを田んぼで潰すわけにはいかない。
田んぼが面白いのはやはり大人達なのだ、あはは。
私は小学校を5回転校、幼稚園も2回やってるので、課外授業の類は殆ど経験がない。
芋掘りとか栗拾いとかそういうのやったことがない。
勿論都会が殆どだから田んぼなんて無縁だった。
唯一1回の林間学校なんて地獄にしか記憶にない。
キャンプとか海水浴とか無縁の子供であった。
それが母の(今となってみればだが・・)一大決心のド田舎1年という経験がある。
広島の山奥に42年前なんの心づもりもさせられず、いきなり連れて行かれた。
其処での私と弟の体験はなんちゅうか・・・・サバイバルの一言。
そんな中で学校に1時間歩いて通うとか、お初のいじめに遭うとか、怪我させられた弟をランドセル前にして背中におぶって子供の足で6キロ先の村で唯一の医者まで走るとか・・・・濃かった。。。実に濃い1年で、私の「物心」とはこの8歳の時期に作られたと言っても過言ではない。
村では牛が平気で道を歩いており、道は牛糞だらけ。
母を始め大人達の山菜の時期のフィーバーぶりは凄まじく・・あの時期学校休まされてたかと思うほど春は毎日山菜採り。
秋には箱にてんこ盛りの松茸。
母はこの時畑も頑張った。
冬に積雪が子供の腰まで振る山陰の山奥・・・できかけてた母の好物の水菜は・・・
雪の下・・・
冬のどんと焼きや夏は早朝に山の木を揺さぶればデパートで高価に売ってるカブトムシがわんさか降ってくる・・・・
春に窓ガラス一面のテントウムシ大量発生とか、学校の水泳は田んぼの用水路で
ヒルにびっしりやられて目眩起こしたり・・
なのに。。。。母のお嬢な抵抗は1年でヘルニアになって強制送還とあいなった。
思えば田舎で暮らす、自分で畑をやるという最先端の時期だったのかもしれない
それを幼子2人連れて女手でやる気になった母はある意味最先端やったなあ。
この人隙あらば企てたなあと思う。
今の実家は相模原
引っ越した28年前なんて沼地を造成しただけの家もろくにないところ。
そこで、母はかなり広い「とうもろこし畑」を作り毎日のおやつはトウモロコシやった・・・。
父は飛行機に乗っても美味いと言われるラーメンやうどんや料亭なんかを出張と称してやらかしてた時代。子供達は母が作ったトウモロコシ・・・・。
う〜〜〜ん。当時から両極端な美食であった。
で、長くなったわ。
田んぼ16日目。大きくなったよ。
懸念されてたいもち病もなくなった。
分けつもしてきて・・・今日なんか風にそよいでる!!!
土が深くて膝上まで埋まる全く持っての不耕起の棚も足を入れるといろんな草の根が絨毯のように張り巡らされて「メリメリ」という感触でそんなに埋まらなくなってきた。
田植えの時白一点の男の子が「こういう田んぼにはこいつがいるんです、針を持ってた刺すから田靴履いたほうがいいですよ」って見せてくれた昆虫もでかくなってる。
が、今のところ刺されていない。
ヒルも出始めるよと言われてる、懐かしいなあ。
そんなこんなで母に田んぼの写真を送った。
田舎の名士の娘だったが、田んぼ最盛期の頃は学校が1週間休みになって親戚とかとにかくお百姓の田んぼの手伝いさせられたと。
体験ではなく、その時期は村丸ごと百姓状態だったと。
「稲を枯らす草取りが大変やったよ」と覚えてる。
それを今せっせと取ってるのよね。と言うと「しっかり取りなさいよ」って。
お蚕もやった、麻の収穫も、お米も・・・例え地元では名士のお嬢でもやることはやった時代。
紙漉になるから田舎に行くと宣言したとき、この母だけが反対した。
「あんたに田舎暮らしが勤まるはずがない!!」
それが遂に米までやり始めて写真見て本当だと判った途端、いろいろと教えてくれる。
父方のおばあちゃんは百姓が嫌で同じように嫌なじいちゃんと駆け落ちまでして都会へ来た。生前に「百姓の大変さをお前にさせたくない、早う帰ってこい」って。
でも、ほんとに楽しいのよ。
今日なんか陸上の草刈り終えたら田んぼへダイブしたもん。
気持ちいいんだな、これが。
おかげで、午後の紙漉も鼻歌まじりで楽しめた。
地元の大ボスのおばあが「あんたらのところ、実に良く育ってるな。やっぱあの子の苗が良かったなあ、今年は厳しいで」
そう・・自分達で育苗したのを病気が来て放棄して一番ようできた苗貰ったんです。
ほんだけど、あんだけ怖かったいもち病は消滅してる。
実は捨てるのを少し持ってきて家の池で育ててる。生きてるしいもち居なくなった・・奥が深いなあ。
1本植え、肥料全く無し。
楽しみだな!
早う、風に緑の絨毯がなびく姿を見たい!